妊娠、出産にふさわしいカラダづくりを意識して、生活習慣を見直そうとするとき、「わかっちゃいるけどやめられない」ことが足を引っ張っていると、やっかいです。
「わかっちゃいるけど」にもいろいろあって、「それも人間なんで仕方ないよなあ」と思えるような場合は、それはそれでよいのでしょうが、「なんとかしてやめたい」と思っているのであれば、切実な問題です。
これまでの習慣って、そうなるべくしてなっているわけで、それを見直すことは、そう簡単ではないということでもあるのでしょう。
そこで、やめられない、変えられないのを、単に「意志が弱い」のせいにしないで、なにか出来ることはないのか、考えてみたいと思います。
◎本当は、あまり、わかっていなかったのかもしれない
わかっていると思っていたけれど、本当は、あまり、わかっていなかったのであれば、あらためて、理解を深めることで、やめたり、変えたりできるようになるかもしれません。
自分に照らしてみても、意外に多いように思います。
要するに、この習慣はよくない、あの習慣はよいというような、まとめ的というか、結論だけというか、そんな情報しかもっていなかったのではないかということです。
もしも、そうであれば、それだけで習慣をやめたり、変えたりできるほうがどうにかしています。
つまり、「よくわかっていなかったから、やめられなかった」のです。
であれば、この習慣はなぜよくないのか、あの習慣はなぜよいのか、そのメカニズムについて関心をもって勉強し、この習慣をこのまま続けた場合とあの習慣に変えた場合、近い将来の自分を想像し、比べてみるのがよいのかもしれません。
もしかしたら、「よくわかったのでやめないでおこう」になるかもしれませんし、やめるにしても、「よくわかったのでやめよう」のほうがやめられる確率も高くなるに違いありません。
◎意志とは関係なく、カラダがやめられなかったのかもしれない
からだが周囲に「反応して」やめられなかったのであれば、周囲を変えてやれば、それに「反応して」やめられるようになるかもしれません。
私たちは、自分の意志や動機に従って行動しているように思いがちですが、意外にも、自分がどう考えていようがおかまいなしにカラダが動いていることが多いというのは、行動心理学では当たり前なのだそうです。
「わかっちゃいるけどやめられない」のは、カラダが、自分がやめたいと思っている「意志」ではなく、「環境」に反応して、やめないというメカニズムが働いているからかもしれないというわけです。
もしも、そうであれば、「意志」をつよくしなくても、「環境」を変えてやればよいわけです。
昔から、「朱に交われば赤くなる」とか、「類は友を呼ぶ」、また、「君子危うきに近寄らず」と言われていますが、あれです。
たとえば、スナック菓子やスイーツは買い置きしないでおくと、カラダが知らず知らずのうちにそれに手を伸ばすこともなくなります。
また、同様に冷蔵庫の中の食材も入れ替えたほうがよさそうなものがありそうです。
さらには、身体を動かして、気持ちよさそうにしている人と知り合いになれば、知らず知らずのうちに運動にはまるようになっているかもしれません。
ここはいろいろと工夫できそうです。
◎習慣をやめたり、変えたりすることで得られる「よさ」を知らない
やめたり、変えたりするだけの価値のある習慣であれば、やめたり、変えたりすることで得られる「よさ」があるはずなので、その「よさ」さえ、知ってしまえば、後戻りしなくなるかもしれません。
トイレで座った途端、ストンと排泄される、頭がスッキリして、いろいろなアイデアが思い浮かぶ、仕事のパフォーマンスが高まる、笑うこと、心が動くこと、楽しいこと、そして、感謝することが増えるなどなど。
一言で言えば、「気持ちよい」ということです。
そもそも、ヒトにはカラダやココロを働かせる仕組みが備わっています。
それは、神様がつくったのではないかと思わざるを得ないくらい、精巧に出来ています。なので、インプット次第でアウトプットがよくもなれば、悪くもなってしまうのは、当然と言えば、当然です。
その仕組みがスムースに働くようにインプットすれば、「気持ちよくなる」のも、当然でしょう。
その「気持ちよさ」を味わい、さらに、よくなるようにインプットするというような「良循環」に入れれば、なにも言うことはありません。
新しい命を授かり、産むということも、ヒトに備わった働きであり、具体的な機能は違っても、それを動かしている仕組みは一つです。
◎さいごに
なんて大袈裟なと言われるかもしれませんが、「わかっちゃいるけどやめられない」ということから、「不自由さ」を連想してしまいます。
やっぱり、わかったうえで、やめるか、やめないかは、自分で決めたいと思います。