最先端の生殖医療技術を駆使して、治療を繰り返しているにもかかわらず、妊娠に至らないとなると、"なぜ、妊娠できないんだろうか・・・"、"なぜ、よりにも自分だけがこんなに苦労しなければならないのか・・・"、心の中は、そんな「?」だらけになってしまうことでしょう。
いきなり、結論を言ってしまえば、妊娠が成立しない、妊娠しても継続しない最大の原因は、あなたのせいでもなく、パートナーのせいでもなく、誰のせいでもなく、"たまたま"、つまり、"偶然"です。
そもそも、何の問題もない若いカップルが、タイミングを合わせて性交渉をもったとしても、妊娠が成立する確率は20%ちょっと、要するに、70%以上は妊娠しないのです、そして、その原因は不明です。
また、排卵しづらいとか、卵管が通りにくい、或いは、男性側で精子の問題で不妊を疑われた場合、不妊原因に治療を施して、問題を取り除いたとしても、依然として、すぐには妊娠に至らないケースは、決して、少なくありません。
なぜなのか?
それは、卵子や精子、または、受精卵に、ある一定の割合で、染色体異常などの問題があるからだと考えられています。
原因は分かりませんが、到底、異常と言える状態ではありません。敢えて言えば、ただ、"そうなっている"としか言いようがありません。
であれば、当事者としては、"どうしようもない"のでしょうか?
私たちなりに考えてみたいと思います。
"偶然"ということをどう解釈すればいいのか
偶然の反対は必然です。
1に1を足すと、必ず、2になる(必然)のか、1に1を足しても、必ず、2にならない(偶然)のかの違いです。
偶然とは、1に1を足すこと以外にも、結果を左右する要素が存在するということであると言えます。
つまり、見える(直接的な)原因と、見えない(間接的な)原因が存在する、言いかえると、私たちにコントロール可能な原因と、私たちにはコントロール不能な原因が存在するということです。
仏教では、因(直接的な原因)と果(結果)の間には、"縁"(間接的な原因)があるということ、そして、結果とは、因と縁が合わさって初めて生じるものだと教えています。
タイミングを合わせて頑張ってみても、また、人工授精や体外受精を繰り返しても、妊娠することもあれば、どうしても妊娠しないこともあるわけです。
妊娠が成立しないことの本質をどう解釈すればいいのか
いかがでしょうか?
表面的には偶然の出来事に見えたとしても、その裏側には、私たちには把握したり、コントロールできない、複雑なシステムが存在しているようです。
ということは、一見、偶然なようでも、すべては必然、つまり、起こるべくして、起こっていると言えなくもありません。
そして、大切なことは、なぜ卵子や精子、受精卵に、ある一定の割合で染色体異常があるのか、その原因が、私たちには分からなくて、そのことを私たちにはコントロール出来なくても、染色体異常をもった受精卵は、結果として、妊娠しない、あるいは、たとえ、妊娠が成立したとしても、継続しないということは、受精卵にとって、そして、その両親にとって、本当は、悲しむべきことではなく、有利なこと、感謝すべきことであるということです。
なぜなら、染色体異常を抱えたまま、生まれてきたとしても、本人や両親、そして、社会の負担やリスクはとてつもなく大きいからです。
要するに、妊娠が成立しないことの本質は、母なる大自然、または、神様と言えばよいのか、いろいろな表現方法があるのでしょうが、私たちに"よかれ"と思ってのことだということです。
人事を尽くして天命を待つということ
"そうなっている"こと、そして、母なる大自然の良心の下では、よい結果に巡り合うためには、出来るだけよい原因を揃えておいて、ご縁を待つことです。
"人事を尽くして天命を待つ"ということです。
具体的に言えば、どうしようもないことでも、諦めるということでもありませんし、反対に、自力で、頑張って、どうこうしようとすることでもありません。
一言で言えば、じたばたしないということです。
特に、治療を繰り返しても、繰り返しても、結果が出ないときほど、もっと、頑張って、どうにかしようとするのが人情なのですが、そんな時ほど、言ってみれば、"流れに逆らわない"のが得策なようです。
何と言えばよいのか、大きな"流れ"のようなものがあって、うまくいかない流れがある時は、何を試みてもうまくいかないように思えてなりません。
かえって、人間の無力さを思い知らされるだけのように思います。
それは、その時々の体質的なものがあるのか、よく分かりませんが、ただ、そんな流れみたいなものがあることは間違いありません。
治療を繰り返しても、ことごとくうまくいかなかったにもかかわらず、しばらくして、ひょこっと、自然妊娠するということが、少なからず、あります。
ストレスの影響によるものだけなのでしょうか、これまで、論理的に納得できる説明を聞いたことがありません。
ただ、"流れが変わった"としか、適当な言葉が見当たらないのです。
であれば、流れに逆らわないことが、結局は、いい結果を得ることになると言えるのかもしれません。
子どもは"授かるもの"であるならば
子どもは、つくるものではなく、授かるものであるとされています。
普段、何気なく使っている"授かる"という言葉ですが、改めて、"授かる"ということの意味を考えてみたいと思います。
まずは、"授かる"時期は、授けるほうが決めることであって、授かる側の希望や都合を聞き入れてくれるわけではありません。
そして、"授かる"ということは、授かるほうが、手を伸ばして、獲得しに行くことではなく、授かるための受け入れる環境を整え、そして、待つということです。
さりげなく、かつ、積極的な、受け身とでも言えばよいでしょうか。
今を、いかに、楽しく生きるか
そうなっていること、自然の理を、不幸とは呼べません。
そして、誰にでも起こること、すなわち、年をとること、それに伴って、老化していくことは、生き物としては、至極、当たり前のことで、それこそ、意味もなくハッピーなことなのかもしれません。
長い人生において、いつ授かるのか、また、授かるのか、授からないのかは、二人にとって、ハッピーな人生かどうかとは別次元のことです。
人生において、起こること、起きることが、二人にとって、よいことなのか、悪いことなのか、いったい、誰が、どの時点で、判断を下すのでしょうか?
授かるのにマイナスであるとされていることは遠ざけて、プラスになるとされていること、自分たちでプラスになりそうだと思うことを取り入れて、待つ。
そして、頑張ってやるべきことは、今を、いかに、楽しく生きるかということに、全力で、知恵を絞り、努力することではないでしょうか。
私たちはそう確信しています。